宇宙は生命にみちあふれているか? ~地球型惑星の発見~

宇宙は生命に満ち溢れているか? ~地球型惑星は発見されたが・・・。
千葉工業大学惑星探査探査研究センター所長 松井孝典

【解説】地球に似た7惑星を発見、生命に理想的

 地球と似た惑星が7つも発見された。トラピスト1という、地球から約40光年の距離に位置する赤色矮星(わいせい)の周りを回っている。赤色矮星というのは小さく暗い恒星のことで、トラピスト1は太陽の質量のおよそ8%、明るさは1000分の1くらいしかない。
 惑星は多くが、地表に液体の水をたたえる環境にあり、大きさもほぼ同じの岩石惑星だというから、まさしく第二の地球ともいえる惑星だ。特に5番目の惑星トラピスト5fは、生命の存在に適しているようだ。

 ≪因果関係では説明不能の不思議≫

 太陽系以外の惑星のことを系外惑星という。最近ではその発見があまりに多く、普通の系外惑星の発見では驚きもされない。地球と似ていて、その地表環境が生命の存在に適した惑星の発見だけがニュースになる。今回は地球に近く、大気や環境の観測に適しているということで注目された。
 次に大きなニュースになるのは何らかの生命の兆候が確認された惑星発見のときだろう。実は今回も、米航空宇宙局(NASA)が仰々しく予告宣伝を行っていた。そこで、いよいよかと思ったが、がっかりしたというのが本音だ。


 宇宙における生命の分布を探るアストロバイオロジーという学問がある。日本でも新分野として優遇されているが、掛け声ほどに有望な学問分野かと問われれば、疑問符がつく。生命の起源の解明など、21世紀中に可能だろうかというほど、そのゴールは先だし、もっとも生命のいそうな惑星である火星探査でも、なかなか生命の痕跡が発見されないという事情を考えてみればよい。
 それでもアストロバイオロジーに惹(ひ)かれるのは、宇宙が理論物理学的には生命にとってやさしいからだ。宇宙に生命がいる不思議を理論的に追究していくと、数学的な因果関係だけで説明できない不思議がいくつも出てくる。それらを説明するには、宇宙に生命が生まれるように、予(あらかじ)め条件が課されているとしか考えられないのだ。

 ≪我々は地球に送り込まれた末裔か≫

 それは、地球がどのように生まれるかとか、タンパク質や核酸がどのように作られるかというレベルの話ではない。地球はこの宇宙ではありふれた惑星の一つだし、アミノ酸や核酸塩基からタンパク質や核酸を合成するのは、考えられないくらいの偶然が重ならないとできない。それでもそれは単なる確率の問題であり、理論的には理解できるレベルの話だ。


 しかし素粒子や宇宙というレベルになると、物理法則に表れる、生命の誕生を保証する数値(自然定数という)が、どうしてその数値でなければならないのか、その理由が説明できない。そのような数値がいっぱい出てくるのだ。
 それは異なる世界や宇宙に在ってもよい。現在では「多宇宙」や「多世界」の存在が理論的に示唆され、それぞれにその存在の必然性があることが示されている。
 極大のスケールの宇宙も、極微のスケールの世界も、根源的なレベルでは「生命に満ち溢(あふ)れている」という制約が課されたような宇宙なのだ。であるのに、身の丈レベルの世界では、それがなかなか実証されない。そのもどかしさに途方もないことを考えたりしている。今回、発見されたような地球と似た環境の惑星に、地球生命を送り込んだらどうなるかという妄想である。すでに太陽系探査では実際に、そのようなこと(地球生命による汚染)を行っている。
 そもそも、われわれは40億年ほど前、過去の文明から地球に送り込まれた原始生命の進化した“末裔(まつえい)”なのかもしれないのだ。いずれ近い将来、地球文明の崩壊のときが来るだろう。そのとき、われわれの子孫は、現実の選択としてそのようなことを考えるはずだ。


≪文明の中に生きる孤独な存在≫

 文明の持続的発展を考えるためには、地球システムの操縦法を知る必要がある。宇宙の成り立ちと仕組みを知らなければならない。それが科学技術文明を切り開いた理由ともいえる。アストロバイオロジーを統合的な学問として位置づけるならば、21世紀の学問と言えるかもしれない。むしろそのような学問に育てていく必要があるだろう。
 文明の未来に関する議論といっても、単に生き延びるためや、右肩上がりの経済を達成することがゴールであるかのような議論が、昨今かまびすしい。それを卒業する時期にきているのではないだろうか。われわれは何のために、このような生き方(文明)を選択したのか考えなくてはならない。
 生き延びるという意味では、狩猟採集(生物圏に閉じる生き方)のほうがはるかに優れている。ホモ属のなかで唯一、外界を脳の中に投影して判断し、抽象的に思考する能力を獲得したのがホモ・サピエンス、つまりわれわれだ。

 であるがゆえに、文明という生き方(地球システムの中に人間という構成要素を作る生き方)を始めた。そのような人類は他にいない。われわれは孤独なのだ。このことの意味をよくよく考えてみなければならない。(千葉工業大学惑星探査研究センター所長・松井孝典 まついたかふみ)


《維新嵐》孤独な状況は、異星人がいると仮定しても彼らも同様なことではないでしょうか?生命の概念など所詮宇宙の片隅の小さな地球とそこに住んでいる住民の一部が唱えたことにすぎません。
 例えば銀河系だけでも何十億という数えきれないくらいの恒星系があるとしたら、どこかに「住んでいる」異星人それぞれに世界観があり、生命の概念があるとみるべきではないでしょうか?
 この問題は、狭い空間にひしめいて、宗教だの民族だのの相違からくる軋轢で、戦争ばかりしている地球人類の頭では、とうていとらえきれる問題ではないでしょう。
 確実にいえることは、宇宙は無限大であり、そこにはそれぞれの生命観や価値観を有した連中が存在してもおかしくない、という認識があります。我々はただ気持ちを常に大きく、多様な思考回路を日々磨いて、これから何がおこっても、びっくりするような国際問題やこくない問題がおこっても柔軟に理解できるようにしておくことが大切なことではないでしょうか?
 『機動戦士Ζガンダム』でのクワトロ・バジーナ大尉のセリフではありませんが、「人類を既に宇宙へ巣立たせる時がきたのだ。」
 もう我々は狭い地球という星から宇宙へ打って出ていかなくてはなりません。活路は宇宙空間へ見出されるべきです。そうしないとそのうちに地球上に住めなくなりそうで怖いです。

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