事件の生き証人との仕組まれた出会い
ロズウェル事件のキーマンであり、UFO墜落当時、ロズウェル陸軍基地の広報官であったウォルター・ハウト氏が米陸軍を退職したのは、墜落事件が発生した1947年から約1年が経過したころであった。
民間人となったハウト氏は、保険代理店を経営しながら、ロズウェルのメインストリートでアートギャラリーを開いた。それと同時に、地元コミュニティに顔を売っていくためにロズウェル商工会議所との関係をよくしておく努力も惜しまなかった。
当時、ロズウェル商工会議所の副会長として幅広い人脈を誇っていたのが、フランク・カウフマン氏であった。とてもチャーミングで社交的であり、新メンバーであるハウト氏ともすぐに打ち解けほどなく家族ぐるみのつきあいが始まった。
しかしこの出会いは、ロズウェル事件の表の顔であるハウト氏とディスインフォメーション工作の初代現場責任者とされるカウフマン氏とのファーストコンタクトに他ならなかった。そしてカウフマン氏にとっては、何十年という長いスパンで続いていくUFO隠蔽工作のため、周到に準備された計画のスタートを告げるものであった。
ロズウェル事件に長く関わってきたドン・シュミット氏は、フランク・カウフマン氏こそロズウェル墜落事件のディスインフォメーション工作のために起用されたエージェントであったと断言する。
口数の少ない老アーティスト
1942年8月5日~1945年10月30日まで陸軍に所属していたカウフマン氏は、二等軍曹という階級で名誉除隊している。最後の勤務地がロズウェル陸軍基地であった。軍歴は短いカウフマン氏であるが、輝かしいものであったといえるだろう。だからこそ除隊後に民間人という身分で仕事を続けるよう求められた。(おそらく彼の性格を買われたか?)
勤務期間がハウト氏と重なったこともあり、お互い面識はあったのかもしれない。除隊後もしばらくロズウェル基地に残っていたカウフマン氏がロズウェル商工会議所の副会長に就任したタイミングが唐突であり、その就任課程も不透明だったことは紛れもない事実である。
ドン・シュミット氏がカウフマン氏に初めて会ったのは、1990年の春だった。カウフマン氏の話を聞いた自宅のリビングの壁には、隙間もないほど数多くの作品が飾られていた。ニューヨーク大学で広告と美術を専攻した後に、さらにニューヨーク芸術アカデミーで風景画を2年間学んだ経歴が現れている。シュミット氏の目には、カウフマン氏が口数の少ない年老いたアーティストとして映ったようである。事件について自ら進んで語ろうとしないのはもちろん、質問も巧みにかわされる。あくまでも傍観者という立場を守ろうという強い意図が感じられた。
伝える内容も他人から聞いた話だけに限られた。シュミット氏は『UFO Crash at Roswell』という本を出すことになっていたため、カウフマン氏から得た情報を元に後にフィールドワークを行うのだが、その過程においても名前を出さないように念をおされ続けた。
カウフマン氏は、シュミット氏と顔を合わせた瞬間から慎重に状況を吟味していたのかもしれない。或いはしばらくの間はそうするように指示を受けていたのかもしれない。さらにうがった見方をするなら、名の売れたリサーチャーの利用法を考えていた可能性も否定できない。
破片回収チーム「ザ・ナイン」
カウフマン氏の態度はすぐに変化した。デブリフィールドにおける破片回収作業に直接関わったというニュアンスの話をするようになったのである。彼は自分が所属していた破片回収チームが「ザ・ナイン」という名前であったことを告げた。9人の情報将校から構成されるという意味なのか?ワシントンDCのロバート・トーマスという上層部の将校からの直接命令により、チームはデブリフィールドに向かって作業に当たったという。
それまで全く知られていなかった情報にふれたシュミット氏は、次々に質問をぶつけた。やがてカウフマン氏は、「乗組員の死体をみた」と語るようになり、アーティストらしく詳細なイラストまで描いてみせたのである。
最初は自分の名前が公になることを嫌っていたカウフマン氏だったが、シュミット氏と会う回数が増えるにつれて“ロズウェル事件最高の生き証人”という立ち位置を積極的に匂わせるようになっていく。
状況証拠のバリエーションも豊富になった。デブリフィールドで破片回収作業に関わったというだけでも驚きなのに、墜落機体とその乗組員のスケッチまで持ち出すようになったのである。次々と出してくるスケッチには、詳細な注釈が書き込まれていた。
カウフマン氏の話が本当なら、事件発生直後からインパクトサイトとデブリフィールド双方に関する詳細な情報を入手していたことになる。そうでなければ破片回収に参加し、墜落機体と乗組員のスケッチを描くことなどできない。シュミット氏の目には、まさに最高の生き証人として映ったに違いない。
カウフマン氏は、1947年当時に使われていた“ビルディング84P3”という固有名詞も口にした。回収された破片と墜落機体、そして乗組員が運び込まれた格納庫の呼称である。この呼称についてはシュミット氏も後に複数のソースから確認している。カウフマン氏は、ロズウェル基地のごく一部の人間しか知らないはずの情報をシュミット氏に明かしたことになる。「多くの偽情報にひと握りの真実を盛り込む」
ディスインフォメーション工作によく使われる手法である。
「ザ・ナイン」は実在していたのか?
1991年の秋、カウフマン氏はシュミット氏をインパクトサイトに連れていった。これを機会にカウフマン氏は自分からシュミット氏にコンタクトするようになり、重みの感じられる多くの情報を次々と提供し始めた。ある時にカウフマン氏はこんなことを言い始めた。「デブリフィールドには何の意味もない。ロズウェル基地にあったガラクタが適当にばらまかれていただけだ。」
デブリフィールドは、インパクトサイトから注意を逸らすために意図的に創出されたものだというのである。そして軽石のようなものを出してきて、“墜落機体の一部”であると告げた。
ただこの物証に関しては話をするたびに内容が変わり、最終的には“インパクトサイトの土壌で結晶化した石”ということになった。墜落機体の一部であるにせよ、インパクトサイトで拾った石であるにせよ、シュミット氏はしかるべき機関における検査が必要であることを主張した。もちろんカウフマン氏は聞き入れず、その後この話は一切でなくなった。シュミット氏の胸中は複雑だった。カウフマン氏と会うときはいつも脳裏に興奮と疑念が同居していたという。
シュミット氏の中で疑念が大きく膨らみ始めたのはこのころだった。リサーチャーとして一人でも多くの有力証人と会う必要を感じた彼は、「ザ・ナイン」のメンバーと会うことを強く求めた。カウフマン氏から彼自身を含めて1993年の時点で3人生き残っているという話を聞いていたからだ。そのうちの一人の名前はロバート・トーマスであるという。しかしこれは、1947年の事件発生当時、ワシントンDCにいた軍の上層部の人間の名前であったはずだ。同姓同名の兵士がたまたま「ザ・ナイン」のメンバーだったとは考えられない。疑念はいよいよ深まる。シュミット氏はカウフマン氏の話を裏付けできる証人を捜す必要を強く感じた。
ウォルター・ハウト氏にも話を持っていったが、カウフマン氏の名前を出すと顔をしかめてそのまま一言も発しなくなってしまった。かつては家族ぐるみで付き合う仲だったのに、いや、それだからこそ、彼はシュミット氏よりも早くカウフマン氏の本質に気づいていたのかもしれない。
退役後も軍の上層部とつながっていた!?
1996年あたりからシュミット氏はカウフマンの証人としての信憑性を検証することに多くの時間を費やし始める。人目を惹きたいだけのただのウソつきではない。ディスインフォメーション工作という言葉に具体的な響きが感じられるようになり始めた。
深い疑念がぬぐえないままカウフマン氏との緊密な関係を保つ傍ら、シュミット氏は別系統の証言をもとに独自にインパクトサイトの場所をある程度割り出していた。インパクトサイトに関する具体的な質問をぶつけるようになったシュミット氏に対して、カウフマン氏はエドワーズ大尉という人物の存在をほのめかすようになる。“軍の上層部”とのコミュニケーションを取り持つ役割の人間らしい。しかもこの人物に対し、定期的にレポートを提出しているというのである。これが本当なら、カウフマン氏は退役して約半世紀が経過した時点でも軍の上層部と緊密な関係を保ち続けていたことになる。
カウフマン氏は、軍の上層部と何らかのつながりを持ちながらロズウェル事件に関する情報を流していたのであろうか。それとも彼が所属していたのは、他の情報機関だったのだろうか。そしてなぜ、シュミット氏に“証人”として協力するスタンスをみせながら偽情報を渡し続けていたのか。
シュミット氏が断言する通り、カウフマン氏はディスインフォメーション工作に深く関わる人物だったのである。ただその証拠が明らかになるまでは、もう少し時間が必要だった。
1999年にカウフマン氏に末期ガンの診断が下された。彼が自宅療養に入った時間を見計らって、12月に再びロズウェルを訪れたシュミット氏に、すっかり弱弱しくなったカウフマン氏は、意味ありげな口調でこう語りかけた。
「ドン(シュミット氏)、ゲームはまだ続く。続いていくんだ。」
そしてロズウェル事件に関わる物事の成り行きを見守る役割を担う人間がいるという事実を告げた。
フランク・カウフマン氏が自宅療養に入ったころから、ロズウェルに移住してきて祖父の面倒をみていた孫息子のリックにエドワーズ大尉という人物から連絡があったか尋ねると、次のような答えが返ってきた。
「空軍士官が何回か電話をかけてきて、祖父の容体について尋ねられました。」
すべてはカウフマンの捏造であった!
2001年1月に入っていよいよ容体が悪くなったカウフマン氏は、ベッドルームから出られなくなった。そんなある日、空軍士官らしき人物が彼を訪れたという。一人きりでベッドルームに入り、30分ほど話をして出てきた。彼は何もいわずにカウフマン氏愛用のリクライニングチェアーに腰をおろし、しばらく目を閉じていた。そして無言のまま帰っていったという。
この人物こそディスインフォメーション工作でのカウフマン氏が関わった部分の終わり方を確認しにきたエドワーズ大尉だったのではないだろうか?ドン・シュミット氏はそう感じた。
2001年2月7日、フランク・カウフマン氏は謎に満ちた生涯を終えた。
カウフマン氏は亡くなってしまったが、絶対的な資料はまだ残されているはずだった。家人の許しを得たシュミット氏はカウフマン氏の書斎に入り、多くの資料をみせてもらうことにした。“それ”を見つけるまで、たいした時間はかからなかった。机の一番上の引き出しが抜かれている。内側に、段ボールで作った書籍入れのようなものが貼り付けられていた。
中に入っていたのは、軍関係の資料だった。さらにその横の空間に、1940年代製の古いタイプライターがおかれていた。隣り合っていたのは膨大な量の書類だ。書体を比較すると、このタイプライターで打ったものに違いない。シュミット氏たちが見せられた書類は、すべてカウフマン氏が捏造したものだったのである。
除隊時に発行されたといっていた書類も、「ザ・ナイン」に関するものもカウフマン氏の手作りであった。軍上層部の人間と一緒にポーズをとった写真も、ロズウェル基地駐在時のものではなく、商工会議所の副会長になってから撮影されたものであることは明らかであった。
カウフマン氏は、軍人という身分でロズウェル事件に関わっていたわけではない。
事件との関りがあったとすれば、長く続いていくディスインフォメーション工作の現場ディレクターという立場であったのだ。これだけの物証を見つけてしまった以上、シュミット氏にとって答えは一つしかなかった。
騙されて悔しい、そんな気持ちは全く湧いてこなかった。誰が何の目的で、フランクク・カウフマン氏という男をロズウェルに駐在させ、おそらくはハウト氏やシュミット氏と意図的に合わせ、ディスインフォメーション工作の最先端で機能させていたのだろうか。ロズウェル事件の底知れぬ闇の深さが改めて感じられた。
誰がカウフマン氏を工作員に仕立てたのか?
ニューヨーク出身のカウフマン氏をロズウェル商工会議所副会長の椅子に据えたのは誰だったのか。シュミット氏はロズウェル市役所の資料庫で徹底的なリサーチを行ったが、カウフマン氏が商工会議所で仕事を始めた過程については、次のような内容の記録しかみつからなかった。
「商工会議所の他のメンバーとは異なり、カウフマン氏の報酬は外部組織から支払われる。」
エドワーズ大尉とは何者だったのか。この人物がカウフマン氏の容体を尋ねてきたときに残した電話番号をたどってみると、行きついたのはテキサス州ヒューストンにあるビルの、何年も借り手がいないオフィススペースだった。
カウフマン氏は短い期間ながらもロズウェル基地で勤務し、退役後はいきなりロズウェル商工会議所の副会長という地位に据えられた。公的記録の内容からは、外部組織から派遣される形で就任したことが看取される。
どんな組織の管理下で働いていたにせよ、カウフマン氏は“真実”を求めてロズウェルを訪れる人間たちの意識を別の方向に逸らす役割を果たす最前線の人間として機能していたに違いない。
そして彼は、自分の役割をこれ以上なく忠実にこなし、何も語ることもないままこの世を去った。ディスインフォメーションの工作員としては、まさに満点で人生を終えたのである。
シュミット氏に残した言葉の通り、ゲームはこれから先も続いていくのだろう。カウフマン氏が任されたゲームは、彼の後継者としてすでにロズウェルで暮らしている別の人間の手に渡り、さらにその後も新しい人間の手に渡っていくのである。
無限ループを感じさせるゲーム、ディスインフォメーション工作の終わりは全くみえない。
1999年にカウフマン氏に末期ガンの診断が下された。彼が自宅療養に入った時間を見計らって、12月に再びロズウェルを訪れたシュミット氏に、すっかり弱弱しくなったカウフマン氏は、意味ありげな口調でこう語りかけた。
「ドン(シュミット氏)、ゲームはまだ続く。続いていくんだ。」
そしてロズウェル事件に関わる物事の成り行きを見守る役割を担う人間がいるという事実を告げた。
フランク・カウフマン氏が自宅療養に入ったころから、ロズウェルに移住してきて祖父の面倒をみていた孫息子のリックにエドワーズ大尉という人物から連絡があったか尋ねると、次のような答えが返ってきた。
「空軍士官が何回か電話をかけてきて、祖父の容体について尋ねられました。」
カウフマン氏が描いたさまざまな異星人のスケッチ。
すべてはカウフマンの捏造であった!
2001年1月に入っていよいよ容体が悪くなったカウフマン氏は、ベッドルームから出られなくなった。そんなある日、空軍士官らしき人物が彼を訪れたという。一人きりでベッドルームに入り、30分ほど話をして出てきた。彼は何もいわずにカウフマン氏愛用のリクライニングチェアーに腰をおろし、しばらく目を閉じていた。そして無言のまま帰っていったという。
この人物こそディスインフォメーション工作でのカウフマン氏が関わった部分の終わり方を確認しにきたエドワーズ大尉だったのではないだろうか?ドン・シュミット氏はそう感じた。
2001年2月7日、フランク・カウフマン氏は謎に満ちた生涯を終えた。
カウフマン氏は亡くなってしまったが、絶対的な資料はまだ残されているはずだった。家人の許しを得たシュミット氏はカウフマン氏の書斎に入り、多くの資料をみせてもらうことにした。“それ”を見つけるまで、たいした時間はかからなかった。机の一番上の引き出しが抜かれている。内側に、段ボールで作った書籍入れのようなものが貼り付けられていた。
中に入っていたのは、軍関係の資料だった。さらにその横の空間に、1940年代製の古いタイプライターがおかれていた。隣り合っていたのは膨大な量の書類だ。書体を比較すると、このタイプライターで打ったものに違いない。シュミット氏たちが見せられた書類は、すべてカウフマン氏が捏造したものだったのである。
除隊時に発行されたといっていた書類も、「ザ・ナイン」に関するものもカウフマン氏の手作りであった。軍上層部の人間と一緒にポーズをとった写真も、ロズウェル基地駐在時のものではなく、商工会議所の副会長になってから撮影されたものであることは明らかであった。
カウフマン氏は、軍人という身分でロズウェル事件に関わっていたわけではない。
事件との関りがあったとすれば、長く続いていくディスインフォメーション工作の現場ディレクターという立場であったのだ。これだけの物証を見つけてしまった以上、シュミット氏にとって答えは一つしかなかった。
騙されて悔しい、そんな気持ちは全く湧いてこなかった。誰が何の目的で、フランクク・カウフマン氏という男をロズウェルに駐在させ、おそらくはハウト氏やシュミット氏と意図的に合わせ、ディスインフォメーション工作の最先端で機能させていたのだろうか。ロズウェル事件の底知れぬ闇の深さが改めて感じられた。
誰がカウフマン氏を工作員に仕立てたのか?
ニューヨーク出身のカウフマン氏をロズウェル商工会議所副会長の椅子に据えたのは誰だったのか。シュミット氏はロズウェル市役所の資料庫で徹底的なリサーチを行ったが、カウフマン氏が商工会議所で仕事を始めた過程については、次のような内容の記録しかみつからなかった。
「商工会議所の他のメンバーとは異なり、カウフマン氏の報酬は外部組織から支払われる。」
エドワーズ大尉とは何者だったのか。この人物がカウフマン氏の容体を尋ねてきたときに残した電話番号をたどってみると、行きついたのはテキサス州ヒューストンにあるビルの、何年も借り手がいないオフィススペースだった。
カウフマン氏は短い期間ながらもロズウェル基地で勤務し、退役後はいきなりロズウェル商工会議所の副会長という地位に据えられた。公的記録の内容からは、外部組織から派遣される形で就任したことが看取される。
どんな組織の管理下で働いていたにせよ、カウフマン氏は“真実”を求めてロズウェルを訪れる人間たちの意識を別の方向に逸らす役割を果たす最前線の人間として機能していたに違いない。
そして彼は、自分の役割をこれ以上なく忠実にこなし、何も語ることもないままこの世を去った。ディスインフォメーションの工作員としては、まさに満点で人生を終えたのである。
シュミット氏に残した言葉の通り、ゲームはこれから先も続いていくのだろう。カウフマン氏が任されたゲームは、彼の後継者としてすでにロズウェルで暮らしている別の人間の手に渡り、さらにその後も新しい人間の手に渡っていくのである。
無限ループを感じさせるゲーム、ディスインフォメーション工作の終わりは全くみえない。