1959年1月27日、イーゴリ・ディアトロフ氏(23歳)が率いるウラル科学技術学校(現在ウラル工科大学)の学生たちは、スキーを楽しむためにスペルドロフスク州北部のオトルテン山へ向け出発したが、そのまま消息を絶っているのである。
その日ディアトロフ氏の登山チーム9人は、ウラル山脈北部のホラート・シャフイル山に設営したテントで休息をとっていた。クロスカントリーや登山に関する豊富な経験と知識、そして万全な装備もある。彼らの計画には何の問題もないはずだった。
一行が出発したのは1959年1月28日、しかし2月半ばになっても関係者に連絡ははいらず、旧ソ連軍と警察による捜査が開始された。
2月26日になって斜面に残されたテントと遭難したメンバー5人の遺体が発見され、5月になって残った4名の遺体が発見されたが、その後捜査は突然中止され、国家機密として封印されてしまった。
ソ連が崩壊した1990年代に入り、一部を残してロシアが公開した資料によると、ディアトロフ氏一行のテントは、内側から切り裂かれて半壊していたことと、学生たちが着の身着のままで脱出していたことがわかった。
問題は後に発見された4名であった。
とりわけ3名の遺体は、雪に埋もれた半裸の遺体、頭部を押しつぶされた者(幾人かは頭蓋骨が激しく損傷していた)、肋骨が粉々に折れた者、眼球を失い舌を切り取られていた者(女性メンバー)など現場写真には明らかに何者かに殺害されたとしか考えようがない無残な遺体が写っている。また幾人かの衣類からは強い放射線が計測された。男女の不審死について、旧ソ連当局は最終的にこう結論づけた。「抗いがたい自然の力」が9人を死においやったのだ、と。
現場付近の様子から、メンバーはテントに荷物を残してバラバラに避難したことがわかった。当時の山の気温は-30°の極寒であり、メンバーの死因は低体温症だと判明したが、彼らが逃げ出さなければならなかった理由は謎のままである。
残された日記から2月2日、彼らがテントから森の方向を監視していたことがわかった。そして遺品のカメラに残されていたフィルムに謎の発光体が写っていたのである。別のフィルムにも発光体が写っており、同じ発光物体を違うカメラで、そして違う時間に撮影していたのである。
事件現場のホラート・シャフイル山は、現地のマンシ族の言葉で「死の山」を意味する聖地であり、古くから頻繁にUFOやUMAが目撃されている。事件当夜に現場から南に50km離れた場所にいたトレッキング客の一行が、ホラート・シャフイル山の方角の夜空に奇妙なオレンジ色の脈動する光球を目撃していた。
それは学生たちが遭遇し、撮影したUFOに違いない。学生たちはUFOに急接近されて襲われたとでもいうのだろうか?
また反復的な強風が低ピッチのノイズを発生させ、9人に恐怖の感情を植え付けたのだという説がある。さらに旧ソ連の放射能研究に関わる重大な秘密を「目撃」したため拷問を当局よりうけ殺された、とする解釈もある。
男女9人が死んだ大事件にも関わらず、捜査は途中で打ち切られた。現場となった峠は一行のリーダーの名前にちなんで「ディアトロフ峠」と呼ばれている。
怪死事件の現場となったウラル山脈。2012年には、この事件を題材にした映画『ディアトロフ・インシデント』が製作され、日本でも劇場公開された。
《管理人》この事件ミステリー云々言う前に、猟奇的連続殺人事件ですよね。犯人逮捕が何より優先されるべきところですが、国家機関から捜査差し止めがあった。それだけでも何かありますね。しかし山中で襲ってきた「何か」を被害者はみているわけです。せめて襲われた原因だけでも明らかにしておくことは、被害者の無念をはらすことにもなるかと思いますが。
《関連動画》
様々な議論をまきおこしていますね。
霊視により、みてみると衝撃的な結果がみえています。
https://www.youtube.com/watch?v=1OwR2IRUHUQ
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